おさとうのはっぴーにっき

はっぴーになりたい!

このブログについて

おさとうのはっぴーにっきを読もうとしてくれてありがとうございます。

このブログはぼく、おさとうの思ったことを吐き出すだけのブログです。

なんのためにもならないし、なんにも「はっぴーにっき」じゃないし、

マイナスなことしかありません。

だけど、こんなぼくの吐き出した言葉に共感して、

同じようなひとがいるんだなって思えることで

すこしでも誰かの心が軽くなればいいなとは思っています。

(ブログのURLが「sugar」ではなく「suger」なのは完全にミスです。ばかですね)

 

いや、おさとうって誰だよってなると思うので自己紹介します。

 

1.ぼくについて

なまえはおさとうくんです。「くん」が付いてるけど女です。なんとなくつけてるだけです。「おさとうくんさん」とかって呼ばれがちなんですが、「くん」と「さん」が重なるとアワワワワ!ってなるので、「おさとうくん」と呼んでください。おさとうでもいいです。あと、一人称は「ぼく」を使ってますがそれもなんとなくです。実際しゃべるときは「わたし」って言ってるので、あんまり気にしないでください。

2.年齢

1997年2月生まれです。年齢は興味ある方計算してください。早生まれって初対面の方に年齢の説明する時困るんですよね。でも年取るのが遅いのでちょっとラッキーな気持ち。

3.人間関係

家族との仲は良好です、たぶん。ただ「親に頼る」ことができません。ちゃんとしたことなんてほとんどないのに、「ちゃんとしなきゃ」と思って頼れず、結果空回りです。変なところで親頼りになってしまうので、ろくな娘じゃないな、と思います。

あと恋人がいます。よくある「理解のある彼くん」ではありません。たぶん相手は惰性で付き合っていて、わたしが一方的に依存しているだけです。鬱に対しては完全放置ですが、服薬はやめてほしいといったそんな感じのタイプです。でも放置してくれるから一緒にいれるな、と思います。

4.しごと

仕事はSEです。大学は福祉系だったんですが土日祝休み・転勤無しに惹かれて、「文系でもやっていけるよ☆☆」という言葉を信じて会社に入りましてSEになりました。やっていけてません。いつまでも仕事に追われるという状況で精神疾患がなお悪化しました。でも休職してません。休職するのがこわいからです。お薬飲みながらなんとか仕事してます。とは言いつつほとんどさぼってますし、会社で死にそうになったりしてます。

(追記)転職しました。接客業しています。SEは自分との闘いって感じでしたが接客業だと相手との闘いって感じなのでやっていけています。自責になるのは相変わらずですけど、言い訳の選択肢が増えたっていうか(わかりづらいですね)。

5.精神疾患

精神疾患については、2021年6月頃からうつっぽい症状がではじめ、不眠になったり自傷行為をするようになったりしました。12月にうつ病と診断され、薬物療法をはじめました。そして3月からカウンセリングも受けるようになりました。うつ病になった原因は仕事と身内の不幸とほぼ休みが無かったことです。(ということにしてますが本当の原因は別にあります、自分でもまだ向き合えてないので書きません)

(追記)2022年の後半から、金銭的余裕の無さで通院できていません。働いているくせに借金があるので本当に余裕がなくて、自分のために使えるお金がないんです。正社員として働いているから自立医療は受けられないし。困ったもんですね。過去の自分をころしたいです。

 

こんなかんじです。

大学も出てるし勉強はちゃんと出来るのになんというか頭が弱くて馬鹿みたいな発言ばっかしてますが温かい目で見てくれると嬉しいです。いやになったらいつでも離れてください。ぼくがあなたのストレス源になるのであれば無理に付き合う必要はないのです。寂しいけど。

基本的に構ってちゃんなので構ってくれると大喜びします。20代後半にもなって精神年齢はクソガキです。

ぼくがいつまで「おさとうくん」としてここにいるかは分かりませんが、もしよければその最後の日まで、よろしくお願いします。

仕事

ぼくは文系大学出身だがIT企業に勤めている。「小さいころからパソコンいじるの好きだったし~、この会社やたら休日多いし~、転勤ないしなんか受かったしここでいっか~~」っていう適当な理由で入社先を決めてしまった。就活している人、ほんとちゃんと自己分析した方がいいよ。

パソコンをいじるのはたしかに好きで、ホームページ作ったり動画編集したりするのは楽しい。けど、そんな仕事は一ミリもない。どういう仕事してるか説明するのは難しいしめんどくさいから簡単に言うと「社内システムの導入とかやるひと」。なので世の中のシステムに関するお勉強はもちろん、ITのトレンドを抑えるために日々情報収集しろと言われている。

だが、全く興味がない。

全く興味がない業界で働いていると、毎日ストレスがたまる。分からないIT用語が多いのに興味がないから勉強する気も起きなくて永遠に分からないままだから。新卒で入社してから毎日イライラしていた。意味わからないカタカナ語であふれる毎日。「マージ」?合体させるって言えや!「デプロイ」?使えるようにするとか言えや!!かっこつけんな!!!日本人なんだから日本語で話せ!!!!ていうかITのトレンドとかクソも興味ない!!!どうでもいい!!

と、いう風にストレスがたまり続ける。そうなると仕事にやる気なんか起きないし、でもやる気おきない自分が嫌になるし、後輩はどんどん知識つけていくのに自分は分からないままだと更に自分の必要性を感じなくなるし、やる気起きないから仕事が終わらなくて残業が続くし、ていうかそもそも残業することが前提のスケジュール組まれてるから更に残業時間増えるし、休日も出勤させられるし、しんどいから定時であがってたら「最近帰るの早いね?」とか圧かけられるし(会社の愚痴です、すいません)

もし興味のあることだったら一生懸命学ぼうとするし、多少の残業があってもきっと頑張れると思う。実際大学時代に化粧品販売のバイトしてたときはブランド化粧品の勉強してたし、たくさん働いても苦ではなかった。

ぼくにとっては全く興味がない業界で働くメリットが1ミリもないので転職したい。でも、転職エージェントには同じような仕事はもう一切やりたくないって言ってるのに「これまでの経験を活かすなら~」とか言われて同じような会社紹介されるし、異業種に転職しようとして面接受けても「これまでの経験がないから」「スキル・知識が合わなくて即戦力にならない」とか言われて落とされる。「印象はかなりいいんですけど~」「人間性は合いそうなんですけど~」とか言ってくるのに落とされる。結局中途採用って即戦力になるような人材を求めているんだと思うし、それは悪いことじゃないというかむしろそれが正しいと思う。でもそう考えたら、ぼくはもう異業種では働けなくて一生IT関連の仕事しかできないということなのか?地獄だなそれは。

ぼく

実際の一人称は「わたし」だけど、このブログとtwitterでは「ぼく」と言っている。何度も言っているけど、特に理由はないし、自分でも「イタいな~~」とは思っている。

自分のことを客観的に分析してみたら、基本鬱であるブログとtwitter内では、「ぼく」が一人称である「おさとうくん」になることで現実と切り離しているのかもしれないと思った。「わたし」と言っているリアルの自分にもtwitterアカウントがあるけど鬱であることは公表してないし感情も出してない。誰も自分が鬱であることは知らないし、鬱であることを知ってる彼氏の前でも元気にしているから、「わたし」は鬱じゃないと思いたいのかもしれない。でも実際はちゃんと鬱なわけで、人前で明るく元気にしていても心は死んでいる。そんな鬱な感情を「おさとうくん」に持たせることで「わたし」を保っているんじゃないかと思う。

「わたし」は理想の自分を演じている。理想の自分とは言っても優秀な人物像じゃなくて、人に迷惑をかけて厄介な人に思われたくないとか、嫌われたくないとか、そういう思いがメインであって、できる自分を演じて成長したいんだ!とかいう意識高い系ではありません。

「わたし」は子供のころ、いじめにあっていました。だから、仲間外れにされることとか人から嫌われることがすごく怖い。なので自分の本心を殺して殺して殺しまくって、仲間外れにされないように、嫌われないように必死になった。そうやって必死に明るくて元気な人を演じてたら「ポジティブな人」「メンヘラとは程遠い人」というレッテルがいつの間にか貼られていた。心を開くのがさらにこわくなった。もし自分の心の中の闇をさらけ出してしまったら、みんなのことを裏切ることになるような気がした。でもそうやって本心を殺し続けていたら、耐え切れなくてある日爆発してしまった。マイナス感情を喚き散らして泣き叫んだ。その場にいた人たちとはもう会ってない。会えない。

これ以上、必死に演じて築き上げた「わたし」というキャラクターを壊したくない。だからぼくはおさとうくんを作って、おさとうくんになった。つらいとき、心が押しつぶされそうなとき、おさとうくんとして喚き散らす。そうやって鬱が「わたし」に干渉しないようにした。「わたし」が彼氏以外の誰にも鬱を公表しないのも、休職しようとしないのも、すべては「わたし」というキャラクターを守るため。

鬱が寛解したら、おさとうくんの役目は終わって、たぶん消える。でもそれがいつになるかは分からない。消えるまでの間、ぼくはおさとうくんとして、ブログやtwitterをやる。「わたし」が「わたし」のままでいられるように。

音楽

音楽が好きだった。楽器をやるのも歌うのも好きだった。いろんな曲を聴きあさって好きな曲を見つけることが好きだった。

俗に言う「邦ロック」が好きだった。バンドというのはどうしてあんなに魅力的にみえるのか。音楽が好きだった割に知識はないので、「なんとなくボーカルの声が好き」「メロディーラインが好き」「曲の雰囲気が好き」とかいうふわっとした理由でいろんな曲を聴いた。田舎のヴィレッジヴァンガードの店内で流れるインディーズバンドの広告を見てときめいてCDを買ったり、YouTubeで適当に流れた曲にびびっときて、そのバンドの曲をプレイリストに追加しまくって聴きまくったり。好きな曲を聴いていると心が潤うような、青春を思い出すようなときめきがあった。

楽器を練習するのが好きだった。小学生のころから吹奏楽をやっていた。本当はフルートがやりたかったけど肺活量があまりに無さすぎるという理由で打楽器に回された。でも打楽器を練習するのが好きになった。いろんな種類の楽器があって、それぞれに特徴があって、練習方法も様々で飽きない。中学生のころの吹奏楽部の顧問はドラムがすごく上手で、たくさん教えてもらった。そのおかげでドラムをやるのがすごく好きになった。中学のころは2分間くらいのドラムソロやって拍手喝采浴びたりした。高校大学でも吹奏楽を続けて、大学では軽音部も兼部していろんなコピーバンドでドラムをやった。みんなで一つの音楽を作るのが楽しかった。好きだった。

ある日突然、音楽にときめかなくなった。

好きだった曲を聴いてもときめかない。新しいバンドを開拓するのもめんどくさい。好きなバンドの新曲も聴かなくなってどんどん置いて行かれる。友達に誘われて知らないバンドのライブに行くのも好きだったけど、新しい曲を聴くのがめんどくさいので行く気になれない。イヤホンをつないで曲を聴くと頭が痛くなる。耳障り。うるさいと思ってしまう。

楽器の練習も億劫になった。周囲と比較するようになってから、自分がいくら頑張って練習しても追いつけないことを悟ってしまい、練習のやる気がなくなった。ド下手な自分がその音楽の一員に入ってしまうことでぶっ壊してしまうような気がした。社会人になっても続けていた吹奏楽も、バンド活動も怖くて辛くなったので辞めた。

趣味・特技を聞かれて唯一答えていた「音楽」が消えた。自分には何もなくなった。

でも、好きだったバンドのライブはいまでも行く。ライブで生音を聴くと、前ほどではないけど少しだけ、曲を聴いたときのときめきを取り戻せる。それもいつかなくなるんだろうか。自分の中の「好き」からも「音楽」が完全に消えてしまうんだろうか。

「完全自殺マニュアル」を読んだ

完全自殺マニュアル」を買った。買おうと思ったきっかけは、いつも通り死に方を調べていたとき、「飛び降りってどの高さからなら死ねるんだ?」と思ってぐぐったら完全自殺マニュアルの抜粋が出てきて、あまりに淡々と、そしてリアルに必要な高さやどれくらい痛いかが書かれていたので、興味がわいた。調べてみると、様々な死に方について同じように書かれているらしい。魅力的だった。これがあればネットで死に方を検索すると毎回わざわざ表示される電話相談の広告を見なくて済むし、ネットの適当な人間が書いた適当な文章よりよっぽど参考になると思った。

久々にウキウキで本屋に買い物に出かけた。欲しいものを買いに行くってこんなにウキウキするものだったか。でも行った本屋には置いてなかったので、結局通販で買うことにした。届くのが楽しみすぎて毎日ポストを覗いた。こんなにワクワクしながら届くのを待ったのは小学生のころ好きだった男の子と文通していたとき以来だ。

先日やっと届いて読んだので、感想を以下に述べる。

自殺=悪とされているこの世の中で、この本は「生きたきゃ生きればいいし、死にたきゃ死ねばいい」「つらい思いに耐えながらそれでも生きる意味なんてないだろ」というようなことが書かれていて、自殺に対して前向きなので心がスッとした。今までは自殺について調べたり様々な本を読んだりしても「自殺は避けるべきこと」として扱われていたので、死にたい自分は悪なのかと思っていたが、この本を読んではじめて自分の考えが肯定されたような気がした。

内容もとてもおもしろくて読みやすいのであっという間に読みきってしまった。様々な自殺方法の手順や事例を紹介してくれるのでかなりためになる。さらに手順だけでなく、その自殺方法の苦痛・手間・迷惑度・見苦しさ・致死率を分かりやすくまとめてくれているのがおもしろい。「見苦しさ」って意外と大事だもんね。首吊りって全身から液体が出て体も脱力するのでひどい見た目になるってどっかで聞いたけど、やりようによってはきれいに死ねるらしい。飛び降りも腰から落ちてきれいなまま死んだ人がいるとか初めて知った。どうしたら見た目良く死ねるかもそうだが、どうしたら確実に死ねるかも書かれているのでとても勉強になる。飛び降りるときは頭からいけ!とか、手首切ってしぬなら切り落とすくらいの勢いじゃなきゃ死ねないぞとか。クスリのところは少し古い情報かなと思ったがどの成分にどんな作用があるか書かれているので興味深い。

自殺方法の書き方も、「こうしたら死ぬから気をつけろ」じゃなくて「こうしたら未遂に終わるから気をつけろ」くらいの感じで書かれているので読んでて笑ってしまった。おすすめの樹海の入り方とか、首吊りの角度はこう!とか、手首切るならこの辺りを…って具体的に教えてくれる。見る人によっては痛々しくて読んでられないかもしれないくらいリアルに教えてくれる。手首を切るおすすめの位置はぜひ本を読んで知ってほしい。

もともと、死ぬときは首吊りか飛び降りだなと思っていたので、それぞれの確実な方法を知ることができたので良かった。これで、確実に死ぬことができる。だからこそ、生きるのが楽になった。だっていざとなればいつでも死ねるから。「いざとなったらこれで死ねばいい」って方法を知っておくことはクソみたいな日々を生きていくうえでかなり有効だ。精神疾患持ちの方にはもちろん、精神疾患になるまでにはいかないが毎日がつらい人々にぜひ読んでほしい本だ。

「病む」ことがステータスになりつつある。

「病みかわいい」とかふざけた文化が一時期流行したように、「病む」ことはファッションのひとつになりつつある。ファッションのためにあっさいリスカをする。ネットの簡単なうつ病チェックみたいなやつをやって「うつ病の疑いがあります」という記載に喜んでスクショをインスタやツイッターに投稿する。

「病む」ことはステータスなのか?「うつ病」はアクセサリーなのか?

最近は非定型うつ病とかいうものも出てきてて、うつ病という病気の幅がかなり広がっていると思う。それほど現代を生きる人たちはストレスとの上手な付き合いかたを知らなくて精神疾患になっている人たちが多いということ。みんなそれぞれつらいことはわかる。つらさにもいろんな度合いがあることもわかる。

でも、そうやって生きることがつらいわけでもなく、ただ「病む」ことがファッションだと思っている元気な人たちが「病む」ことをステータスにするから、本当に精神疾患を持っているひとたちがさらに生きづらくなっていると思う。

病んでいれば心配してもらえるから。構ってもらえるから。それに、弱い自分・病んでいる自分をアピールすることで「ほかの人とは違う」って差別化できるから。だからちょっと落ち込んだだけで本当に死のうとなんてしてないくせに「死にたい」とか言うし、あっさいリスカして病んでるアピールしたり、ネットで知ったODの知識を活かしてODしたりする。「病む」ことをステータスにする。そんな人たちが増えすぎたせいで、本当に精神疾患を持っているひとたちが勇気を振り絞って助けを求めたとしても、「そうやって言えば心配してもらえるから言ってるんでしょ?」「はいはい、病んでるアピールね」って理解されずに終わる。それに傷つくから、もしくはそういわれるのが嫌だから、精神疾患を持っているひとたちはどんどん助けを求めなくなる。元気なふりを続けてある日ふっきれて死ぬか、一人ですべて抱え込んで死ぬ。

病んでいることをステータスにしている元気な人はいいよね。だって「病んでる自分」が大好きだもんね。自分のことが嫌いで嫌いでどうしようもなくて罰を与えるために自傷行為したり、人とのかかわりを遮断したり、うつ病であることが恥ずかしくて隠し通そうとするけどその労力によって疲労してすべてが嫌になったりしないんだよね。自傷行為もピアスと同じアクセサリーなんだよね。「うつ病である自分」をもっと知ってほしいんだよね。そうやってアピールできることはとても羨ましいよ。病んでることをステータスにできるほど、ポジティブになりたい。嘘。なりたくない。ダサいから。

最近はよく自分が死ぬ姿を想像する。それを見た家族やともだち、彼氏の姿を想像する。どんな気持ちになるだろう。泣いてくれるのかな。ともだちや彼氏はお葬式に来てくれるのかな。

少しずつ少しずつ、死ぬための準備をすすめている。といっても、スケジュール帳に携帯やLINE等のパスワードを書いておいたり、奨学金等の払わなきゃいけないお金の計算をしてるくらいで、まだまだすすんでいないけど。エンディングノートを書いていると、急にさみしくなって、やっぱり死にたくないのかもと思う。でも生きることに希望を見出せない。

家族やともだちのことがもちろん大好きだよ。彼氏のことも本当に大好き。だけど好きだからこそ、これ以上自分なんかに関わってほしくない。でも一人になるのはさみしい。でも迷惑かけたくない。どうしたらいいのかもうわからない。

ぼくが死んで、大好きな家族や彼氏が悲しむのは、死ぬことよりつらい。だから今のところは苦しみながらクソみたいな毎日を生きている。こんなぼくが死んで悲しんでくれる人たちがいる。ありがたいけど、それも生きるプレッシャーになっていたり。でも気にかけてくれて嬉しかったり。複雑。

死にたいけど、本当は生きたい。幸せになりたい。つらいこともありながら、楽しいことや幸せなこともある人生を生きたい。本当の願いはこれなんだけど、そんな人生を生きるためにすべき「努力」とか「我慢」ができなくて、それならばいっそ死んでしまいたい、という気持ち。楽しいとか幸せとかって希望は一瞬で遠くに消えてしまう。

なんで生きることってこんなに大変なの?考えすぎなだけ?みんなは毎日「次の日なんてこなければいいのに」って思いながら、泣きながら眠りにつくことはないの?「いっそ死んでしまえたら楽なのに」っていうのは、だれもが考えることじゃないの?一番良さそうな死に方調べて、いざとなった時にこうすれば死ねるからって安心したり、辛くて辛くてどうしようもないときは自傷行為に走って思考を止めたりしないの?ただ普通に座って仕事してるだけで心臓がぎゅっと苦しくなって泣きたくなる。頭が重くて集中できなくて文字の羅列を見るだけで吐きそうになる。そうなったらどうすればいいの?

元気な人は「何でも聞くからね」って言ってくれるけど、「特に嫌なことがあったわけでも、何かされたわけでもないけど、悲しくてさみしくて苦しくて辛いです」なんて言ってもアドバイスも何もしようがないから困らせてしまうだけだ。人に迷惑かけてまで生きる価値なんて自分にはない。